水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

「科白劇 舞台『刀剣乱舞/灯』綺伝 いくさ世の徒花 改変 いくさ世の徒花の記憶」

正式タイトル:

科白劇 舞台『刀剣乱舞/灯』
綺伝 いくさ世の徒花
改変 いくさ世の徒花の記憶

 

8月9日
12:00
日本青年館ホール

 

【まえがき】
 刀ステは関心ありつつも触れていなかったところに、昨年友人に「次の公演にキャラメルボックスの岡田達也さんが出るよ」と釣られて予習という名の『虚伝(初演)』『義伝』ブルーレイ鑑賞会を開いてもらい、今年1月に『維伝』ライビュ鑑賞。その後、5月のDMMの刀ステ一挙無料配信で残りの作品もひととおり鑑賞。という新参者の記録。
 もともと(一度は生で観てみたいな…)と思っていたところにCOVID-19が蔓延する環境となり、こういうときに上演される公演だからこそどうなるのか生で立ち会ってみたい、とダメ元で抽選応募したところ奇跡的に当選した貴重な一回でした。

 

【開演まで】
 事前に公式サイトでも案内されていたとおり、感染予防策を徹底した上での上演。早めの開場にはじまって、手指消毒、足拭きマット、検温、セルフもぎりでの入場、開けられる箇所は開け放たれてそこかしこに扇風機が置かれたロビー、千鳥格子に配置されてこちらも常時換気されているらしく微風の吹く客席。現地物販はなしで通販のみ。スタッフの方も必ず目の届くところにいらして、人同士の間隔を空けるようになどこまめな案内。
 先日の新国立劇場でも思ったけれど、開演前のこの状況だけとってもカンパニー側にこれまでの公演とは段違いのコストがかかっていることをまざまざと感じ。これで客席半分で上演というのは本当に厳しい状況だろうと重い心持ちにも。
 席に着くと、ぱっと目に入る範囲でも空席がちらほら。すさまじいチケット倍率を風の噂にも聞いているあの刀ステ、しかも日曜の前楽での空席。観客側にもまたままならない現状がのしかかっていることを実感しつつ、初めて生で観る刀ステが開演。


【感想】
 *細部うろ覚えなので間違い多々の可能性

 放棄された世界・慶長熊本への特命調査に赴いたとある本丸で、同じ特命調査を経験した別の本丸の記録を読むという構成。
 これまでのシリーズで語られてきた刀剣男士たちと時間遡行軍との戦いのしくみ(それぞれの本丸から同じ時間軸に繰り返し出撃して勝利をつかむ)をベースにして、

・この本丸が経験した特命調査=本来上演されるはずだった「綺伝 いくさ世の徒花」
・記録にある本丸が経験した特命調査=今回上演されている「改変 いくさ世の徒花の記憶」

 と一種のパラレルワールドが立ち上げられ、「あったはずの物語」を意識させつつも今回のための新たな物語を語るつくり。とはいえ「やむなく制作されることとなった不十分な”代わり”」的な印象はもちろんなく、配信やブルーレイ・DVDで見る人も含めた膨大な数の観客を背負い、これから見ることになる無数の観客も見据えて、舞台「刀剣乱舞」シリーズの一作としていま一番面白いものを出そうという気概をはしばしに感じる力強い一作でした。

 

 人の動線や舞台装置など、おそらく非常に多くの厳しい制約を課した上で再構成されたと思われる脚本・演出。全員がフェイスガードをつけた上で、人物同士が向かい合う図は最小限にし、出ハケや立ち位置も互いに接近しないよう調整され、一度に大人数が出るシーンは極力少なく。

 

 そうした中、今回の「改変」を成立させるため投入されていた大きな要素のひとつ「講談師」。
 実際にプロとして活動する神田山緑をゲストに、この「講談師」を舞台上に常駐させることで人物たちの動向をナレーター兼実況中継のようなかたちで解説する手法。表現的な縛りの多い今回での一種のサポートとしての機能がもたされていつつ、これがサポートの枠に収まらず、今作を特色づけエキサイティングに魅せる演出として積極的に機能していてとてもよく。
 講談なのがおそらくキモで、発声・口調ともに舞台上のほかのキャラクターとは明らかに異質なことでかえって新要素として馴染んでいた感。「歴史上の出来事を”物語”として臨場感をもってドラマチックに”語る”」ことに特化した伝統芸能の強靭さでもって、ひとつの大きな要素として立っていた。
 特に、刀ステの大きな魅力になっている激しい立ち回り。実は刀ステで一番好きなのがこの立ち回りだったので今回は観られないなと寂しさと諦めがあったのですが、もちろん従来の至近距離でやりとりする殺陣はなかったものの、映像の時間遡行軍を背景にそれぞれ正面や横を向いた男士たちが宙に向かって激しく刀を振り、そこに講談調の激しい語りが入る見せ方・聴かせ方はこれまでと別種の迫力があり。「誰だ、誰だ、誰だァァァァァ!山姥ァ切長義だァァァァァ!!!!」などなど、見せ場が語りで盛り上がるというよりむしろ「語りによってそこが見せ場になる」力、テンションブチ上げっぷりたるや……忠興とガラシャの邂逅のくだりなどもよかった。
 そして講談師、まさかの刀装。くださいその刀装。笑いのとれる設定でありつつ、ずっと舞台上にいることの理由づけと、なによりこれもまた”モノ”が”語る”「モノガタリ」であるという構図を維持しているのがうまい…。

 講談以外のところだと、山姥切長義と亀甲貞宗がドン・フランシスコ(大友宗麟)たちと会談するシーンでの椅子を使った演出も印象的でした。椅子の配置と人物の配置がくるくると入れ替わるさまが腹の探り合いの緊張感と重なっていて。また、立ち回りも大詰めの数カ所だけは人物同士が直接対決する形式に戻りつつ、そこでの相手の武器が薙刀などのリーチの取れるものだったのもなるほど感。(それでも通常の刀ステの殺陣以上に距離を取ってはいましたが)

 と、演出面のよかったところを挙げつつ、内容のほうは正直をいえば序盤は引き込まれたものの、個々のキャラクターに思い入れがない身には、ガラシャと忠興の関係性以外のところは劇中で表現されるものだけではドラマチックに感ずるところ少なく。脚本書き換えの関係かキリシタン大名ひとりひとりの描写があっさりめだったのも関係したかもしれず。また刀ステシリーズで好きなのが『ジョ伝』と『維伝』なので、一本の作品として構成が凝ったものや、情緒以外のところでも話が動いていくものが好みなのかもしれず。
 末満健一の脚本は舞台「刀剣乱舞」シリーズで触れているのみなのですが、世界観を作り込んでシリーズ全体に大きな伏線を仕込む一方で、話運び自体はひとびとの個々としての(その時々の)行動方針が見えにくいというか、能動よりアクシデントによる展開が中心で「話を進めるために進める」感が強い印象なのだけれど、今回はそれが顕著に出ていた感。また、心情表現が流れというより一点集中型、言葉の端々に匂わせるというよりは直接的に説明させるほうが多いので、こちらも事前の思い入れがキーになるような。

 

 そうしたこともあり、全体通して一番心が動いたのはラストだった。
 別の本丸が経験したドラマを読み進める本丸はときおり、「自分たちのときはこうではなかった」と反応を返す。しかしその細部は語られず、最終盤にこの本丸の歌仙兼定は主から、彼ら自身の慶長熊本の物語をもう一度聞きたいと請われる。歌仙はこの場では語らず、「またの機会に」と返す。
 舞台演劇に限らず、ライヴイベントはすべて未来との約束だ。いまだ存在しないパフォーマンス、いまだ存在しない時空間が未来のその日その時その場所にきっと実現している、そして自分はきっとそこにいられると信じて、観客は予定を空け、チケットを買う。
 その約束の儚さは、この半年間でどれだけ証明されたことだろう。ありとあらゆる公演が中止となり、いま少しずつ再開され始めたそれらもほとんどは客席数を/公演会場を大幅に減らした上でいつまた公演中止になるとも知れず、観客はあるいは日程や場所が変わり倍率が上がったチケットを取ることが困難となり、あるいは自分自身やまわりの状況によって生の観劇自体を諦めることを余儀なくされる。
 それでも歌仙兼定は、必ず、と告げる。”主”のいる方向、舞台から客席へ真正面を向いて力強く微笑む。

 個々に独立しつつも、全体でひとつの大きな物語を描こうとしている舞台『刀剣乱舞』シリーズ。それに連なる一本でありつつ、同時に「ここにあるはずだった物語」が「いつか必ず語られる物語」として約束される、次への架け橋。数えるほどの公演をぽつりぽつりと打っているいまの舞台芸術の世界にともった小さな灯は、いまは途方もないとすら思える希望を語ってみせていた。

 

 この感想を打っている最中、公演は大千秋楽を迎え、次回公演が発表された。文字通り明日をも知れぬ状況下での「次」の約束。この約束が、どれだけの人の心に灯をともしたかを思う。

 


 最後に、本文に混ぜられなかった個々(歴史人物)のことを少しだけ。全然まじめじゃないわりに最大級のネタバレ。

 

ガラシャ
ガラシャ第二形態で腹筋に致死ダメージを受け5分間ほどセリフがまったく頭に入りませんでした
・慶長熊本に宝塚大劇場が来た
・トート(出展:エリザベート
・ものすごくかっこいいのですがものすごく面白い
・なぜそんなにもダイレクトなタカラヅカデザインにしたのか
・おかげでその後出てきたキリシタン大名たちの第二形態も宝塚にしか見えず
・よくネット上で脚の長いひとに対して言われる「股下が2メートルあった」などの表現を実感を持って理解する
・そのうえ薙刀までぶん回す
・このガラシャが負けるのはおかしい
・でも負けなければならないし、その相手は細川忠興のあまりに荒々しい逸話を身に宿した歌仙兼定でなければならなかったのだ……

 

黒田孝高
 時間遡行軍による改変と刀剣男士たちによるその修正が、ひとつひとつの史実に対して果てしなく繰り返され、歴史が「濁っていく」。ひとつの線を幾度もなぞるように、歴史は繰り返され、記憶は混ざり合い、自我は揺れる。その中で他世界の己を、その調略を”識った”黒田孝高
 黒田のさまざまな発言、そして今回の物語を読んでいた本丸の刀たちの反応からするに「綺伝」どう考えても黒田案件(造語:黒田の軍師によって男士たちがとてつもない苦労をさせられる羽目になる任務の意)じゃないですか……人の身でありながら男士たちの強大な敵として立ちはだかるポテンシャルを持ったジョ伝の黒田如水が大好きなので綺伝全力待機するしかなくなってしまった……あと全然関係ないですが佇まいが前半も後半も美しくて大変よかったです……。

DULL-COLORED POP「アンチフィクション」

2020.7.26

13:00

「観劇三昧」のシステムを使ったライブストリーミング(期間限定アーカイヴあり)

 

・DULL-COLORED POP『アンチフィクション』ライブ配信で。
いま、物語[フィクション]を語れるのか。劇作家・谷賢一が懊悩する劇作家の台詞を書き、自らの身体を与えて、谷賢一が演じる劇作家は「すべて本当の話です」と述べる。そこにいたのは誰だろう。70分間(換気含む)観客が見ていた人は誰だろう。

・谷さんが俳優ではない(俳優の肩書きで活動してはいない)ことが、奇妙な感覚を強めていた。私事のような何かが、ただしかなりの部分は台本付きで、わりとエンゲキっぽい声と身振りとで行われている。俳優裏方観客社会、どれかひとつにでも何かあれば即中止の環境で14ステージ繰り返されている。

・COVID-19と隣り合わせの世界で困惑と苦悩を抱えつつ生活し演劇をする/観る行為はリアル、劇作家の懊悩もリアル、何より7月26日13時からの70分間はリアル。山積みのリアルに覆われつつ、舞台に乗っていたそれを私は「物語」とみなす。画面越しに見た、がたついた「物語」として、今日の思い出に残す。

・「だから」の話、普段ぼんやり感じていたことを言語化してもらえたようで印象に残った。人はカオスに耐えられない。因果を求めて安堵し、ときにそれこそ”理屈にかなったリアル”だと信じようとする。いわゆる陰謀論だってこの「だから」の極北で。「だから」を手放す勇気、「だから」を抱きしめる思い。

 

・これを言ってしまうとなんだな…という感じではあるのだけど、公演本体よりむしろ、その外側で同時進行で発信されていた「この環境下で舞台公演を行う困難(社会的に、芸術的に、経済的にetc)」についての話に、観客としても問われたところ多く。リアルは厳然と立ちはだかる。

タブレットの前で座ったり転がったりしつつの鑑賞だったんだけれど、三本締めは一緒にやりました。こういうこと、ありますよな。届くはずもないのに、なんでしょうな、これ。こういう不条理な行いも「だから」の変奏なのかもしれない。祈りにも似ている。

 

 

シアターコクーン「プレイタイム」

2020.7.19

e+「Streaming+」7.12に行われたライブ配信アーカイブ

 

シアターコクーン『プレイタイム』アーカイヴ視聴。劇場がひととき目覚め、岸田國士の一幕劇を語り、再び眠りの準備をするまでの一部始終。試行錯誤を重ねつつ様々に演劇の配信が行われている今、演劇の上演/劇場そのものを作品化して撮ることを試みた映像として、長く記憶され語り継がれてほしい。

・ふだん耳にすることのない、コクーンという劇場を駆動させるモーター音。無骨な金属の骨組み、上下するワイヤー、無数のスイッチ。それらを管理し立ち働くスタッフ。合間を漂う俳優。幻のような台詞の断片からやがて始まる慣れ親しんだ「上演」。ドキュメントとフィクションのあわいを映すカメラ。

・それだけで鑑賞の印象を支配するほど濃いコンセプトの中で、岸田國士の台詞劇をそれと対等にがっちり立ち上げてくる黒木華森山未來も本当によかった。カメラの粗さなど含め、録画でないライヴ配信の熱として受け取りたく。
煌々と光る「THEATRE」に少し目が潤みました。”プレイタイム”をありがとう。

・アーカイヴ、最初の7分くらいはほんとの開演前(CM入ったりする)なのに(こ、これも「上演」か…?)としばらく待ってしまったのが今思うとちょっと笑える。現代アートを前にしてどこからが作者の意図したアートなのか分からずフライングする系のアレや。

新国立劇場「願いがかなうぐつぐつカクテル」

2020.7.14

13:00

新国立劇場 小劇場

 

 COVID-19の影響で公演という公演がなくなって数ヶ月、感染予防策を行いながら少しずつ再開しはじめたばかりの劇場での「観劇初め」に選んだ作品でした。
 すべてを叶えられる正解などない選択を求め続けられる状況で、現時点までの科学的知見をもとにした徹底的な感染予防策のもと、劇場を開き演劇の灯をともすことを決断した新国立劇場の姿勢に敬意を表します。


【はじめに】
 ミヒャエル・エンデの児童文学が人格形成に多大な影響を及ぼした人間で、本作のもととなった小説『魔法のカクテル』も一時期は暗記レベルで読み倒しておりました。
 この『願いがかなうぐつぐつカクテル』が昨年に新国立劇場ラインナップとして発表されたときは文字通り飛び上がる勢いで喜び何をおいても観に行くと心に誓っており、この状況で一度はこれも中止かと覚悟していたところに上演の報。発売と同時にすぐさまチケットをとり、ついに訪れた観劇日。
 そのようなわけで、過剰な思い入れによりまったくまとまりのある感想を書けている気がしません。

 
【あらすじ】
 大晦日。悪の魔術師イルヴィッツァーの差し迫った悩みは、地獄との契約で課されたさまざまな悪事のノルマを果たしきれていないこと。今年中にノルマを満たさねば「差し押さえ」られてしまうピンチの中、おばである魔女ティラニアがとある特別な「カクテル」の作り方をネタに彼の元へと訪ねてくる。ふたりの邪悪な企みを察知したイルヴィッツァーの猫・マウリツィオとティラニアのカラス・ヤコブはそれを阻止するためひそかに行動を起こそうとする。
 新年までたったの数時間。悪なるものと善なるもの、勝利するのはいったいどちら。

 『はてしない物語』や『モモ』で日本でも親しまれている巨匠ミヒャエル・エンデの小説をエンデ自ら戯曲化。日本初演

 

【感想】
 雪の舞い散る大晦日の静謐な空気の中、戦争、疫病、環境破壊といったこの世の生命を苦しめるものを文字通り業務として遂行しているものたちと、諦めの心に足をとられそうになりながらもかれらに懸命に立ち向かおうとするちいさな動物2匹とを奇妙かつ軽快に見せつつ、人の愚かしさへのチクッとした風刺を混ぜ込んだ、おとなもこどもも楽しめるメルヒェン。

 小説では後半部の多くを占める魔法のカクテルづくりの描写がひとつの大きな魅力になっていて、奇想天外なアプローチを次々要求されるカクテルの製法と、それに応える魔術師たちの奮闘とが詩や言葉遊びを交えて次々に紹介されるさまが、脱線の楽しさ、ナンセンスな「あそび」の豊かさを湛えていました。
 舞台版はこのカクテルづくりの大半をすっぱり省略。迫り来る制限時間の中、イルヴィッツァー&ティラニアの魔術師コンビと、マウリツィオ&ヤコブの動物コンビのどちらが目標に到達できるのか……という根っこのストーリーに重点を置いた構成に。そのため、


「夢中になれることがあったら、それをしなさい。なかったのなら、お眠りなさい」
「悪とはそれ自体矛盾するもの」


 といった含蓄ある言葉たちの存在感が増し、この世の善と悪のあり方や、幸福、祈り、運命といったものへの洞察を含んだ、おもしろおかしくも刺激的なおとぎ話としての本作の姿がより分かりやすくなっています。
 手を組みながらも腹の中では相手を出し抜きたい魔術師たちは、行いも悪ければ性格も悪い意地悪大博覧会状態。いっぽう動物たちはぼんやり者の気取り屋と口うるさい皮肉屋でさっぱり反りが合わずで、スケールは大きくとも行動範囲の小さな物語は、こうした個性豊かなキャラクターたちの軽妙なやりとりで引っ張られていく形です。

 白眉は終盤、聖シルヴェスターによって語られたこの世の善悪の形が登場人物たちの有りようにそのまま反射し、邪悪なたくらみであったはずのものが「より善き世界を求める祈り」に姿を変えて澄んだ言葉で紡がれてゆくシーンでしょうか。大人たちへは皮肉を、子供たちへは笑いを示しつつまっすぐに(ちょっとへべれけに)響く未来への祈り、その報いが斜め上の方向からひょこっと訪れるさまは可笑しくも感動的です。

 

 構成が原作よりシンプルになったぶん、ひとつひとつの展開を濃くテンポよく出してキャラクターの強さでそれを下支えするという基本的なところが大事になってくると思うのですが、今回の上演ではこれがうまくいっていないように思えたのが最大の残念点。
 どちらかといえばナチュラル寄りの演技と、絵本からそのまま飛び出たような派手で遊び心にあふれた衣装・照明・音響・装置などとの食い合わせが悪く、というより演出全体にメリハリがあまりないのでそれらがうまく組み合わさらず、結果として重要な台詞やシーンもダラッと流れがちに。特に1幕目はストーリーを転がすための助走の要素が強いので、メリハリのなさがそのまま前提の伝わりづらさに直結して、2幕での盛り上がりを支えきれていなかったように感じました。2幕も、すぐ崇高な思考に浸ってしまう聖シルベスターまわりや、意図とやっていることのギャップがドラマティックなはずの願い事合戦のシーンで特に惜しさが。
 客席に話しかける演出、また現実世界とリンクするネタを使ったくすぐりも、ベースとなる物語世界が強く立ち上がりきらない中なので瞬間的にウケはするけど効果を発揮しきれていないように思われました。そして終盤のヤコブの「女は信用ならないから……」は、元戯曲にある台詞であっても今どき子供たちもターゲットにした作品で出すのであればひとひねり要るのではないか、とも。

 

 演出面でよかったのは、動物2匹を人間キャストと紙芝居のような人形の2パターンで表す方法。見た目に楽しいだけでなく、人間パートでは2匹の細やかな心の動きと交流を、人形パートでは小さな2匹が文字通り巨大な世界の中で懸命に行動する姿を……とポイントを押さえた見せ方。気分を高めるイルヴィッツァーとティラニアの歌う悪魔の賛美歌の毒々しさや、LSD(舞台版はなんの略語か説明されないのでホントにあのLSDじゃないか疑惑)で「トぶ」くだりのサイケな照明・音楽の組み合わせもインパクト大。

 - - - - - -

 と、総評としてはあまりたくさんの星はつけられないのですが、印象的だったのが衣装。基本の形状はオーソドックスでありつつ細かなパーツや色使いで非現実感たっぷりに。
 邪悪な魔術師ふたりは特に、けばけばしい色合いがなんとも目に楽しく。色とりどりの短髪、黄色い手袋とブーツ、水色のコートには原色のペンキが散ったイルヴィッツァー(コートを脱ぐとTシャツ1枚でとたんに生活感が出てきてちょっと笑えます)。小説の記述をふまえた「黒い縞入りの硫黄色のイヴニングドレス」で「まさに巨大なスズメバチ」のゴージャス派手派手なティラニア。ティラニアのショール(推定)、ぬいぐるみを乱雑に繋げたような代物でたぶん毛皮製品の誇張表現だと思うのですが一見かわいくもえげつなさ。

 

 COVID-19対策の一環として出演者全員が口元を覆っているのは演劇ニュース等で知っていたのですが、雰囲気を壊さないまま個々のキャラクターに合った工夫がされたデザインで、元々こういうコンセプトだったのではと思うほど。作品のファンタジックな雰囲気が大きく味方した所はあるやもしれません。
 とりわけ地獄の役人マーデ氏がたいへんに好きでした。正直に書くとツボでした。スーツの襟と肩がそのまま持ち上がって顔を半分隠しており、目深に山高帽を被ると頭もすべて隠れて首なし男的な不気味さが。
 口元対策で声がこもるのではないかという懸念、個人的には冒頭は心持ち聞き取りづらいなーと思いつつもほどなく慣れ(後方席での観劇)。早口の大声になると少し影響が大きいと感じたので、演出の傾向や俳優の発声にかなり左右されそうな気配も。

 

 舞台装置も好きでした。色のはっきりした衣装を際立たせるオフホワイトのボードは、イルヴィッツァーの実験室をシンプルに表現した線画でいっぱい。舞台中央には巨大なドーナツ形の大時計(小説版を踏襲し、ボーンやゴーンと鳴る代わりにイテッ!イテェェ……といちいち悲鳴を上げる邪悪仕様)。刻々と迫る新たな年へのカウントダウンを常に意識させられつつ、輪っかの向こうや壁の上方に広々とおかれた遠景が、物語の遠大なモチーフに思いを馳せるための空間的な広がりを作っていました。

 

 最後に俳優について少しだけ。
 我らが北村有起哉、ほかの登場人物と比べると唯一彼だけが小説とかなり異なるビジュアルなのですが(戯曲指定か演出かは不明)中身はまさしくあの気難しくプライド高く案外小物で底意地の悪い枢密魔法顧問官ベルゼブブ・イルヴィッツァー。序盤のティラニアおばさんとの駆け引きは公演後半になるとさらに嫌らしい感じになっていきそう。
 どう考えても元台本に存在しない「2.5次元」のくだり、バカにするような笑いだったらいやだなと一瞬身構えたのですが、2.5次元観劇経験わずかの自分でも「あっ知ってる」となる感じの絶妙な「っぽさ」でうっかり笑いました。プロの観察眼と技術がここで…こんな…。ネタ自体は要るか要らないかで言ったら確実に要らない派なのですがクオリティは評価したい。もうひとつの形態模写は役回りゆえにチクリと意図を感じさせるようなさせないような塩梅。収録日だったのでばっちり残ったはず。

- - - - -


 夏の気配の日々濃くなる季節に観る、大晦日の魔法。
 ブラッシュアップされた再演があればとても嬉しいです。
 今度は本当に年末などに観て、リアルタイムの雰囲気も味わってみたく。

 

PARCO劇場「大地」

2020.7.11

17:00

WOWOWオンデマンド・ライブ配信

 

・『大地』の印象的なところを思い返していた。1幕と2幕で繰り返される「そんなもの」のために起こされる重い選択と、皆の追認。あの空間では「そんなもの」は残酷にも遥か遠く、何を喪ってでも手にしたい宝石となる。そうして彼らが最後に沈黙し俯き選ぶものもまた、ハタから見れば多分「そんなもの」。

・役者という生き物、という言い回しは、俳優本人の口から聞かれることも珍しくないように思う。『大地』の空間にいたかれらは、まごうかたなき「役者という生き物」として定義されていた。

・言葉が足りないツイートだった。最後の「そんなもの」は、あのシーンで差し出されたものに対応するつもりで書いていた。ほとんどの人が重要とみなす”それ”だけなら、たぶん彼らは崇高に投げ出せた。でも”それ”と一緒に「そんなもの」が失われることこそ、彼らの最大の弱みであり恐怖であり。

・かくして生贄選びは陰鬱な顔をして傲慢に執り行われる。

 

・自分が配信見ていて最初に立ち止まってしまったツベルチェクがらみの引っ掛かりポイント、やはりこの1幕-2幕の対応を作るにあたってふたつに文脈的な繋がりも持たせようとした結果、扱いを重くしたいのか軽くしたいのか定まらなくなり粗雑さだけが残ってしまったように思えてきた。

・三谷さんの十八番の「すべてを繋げる」ロジックが、この度は個々の要素をメインで描きたいテーマ・展開のための小道具役割に寄せすぎてしまい、それぞれの要素のもつリアルな意味合いを脇に置いてしまったというか。1幕2幕で登場人物がどこかちぐはぐに見えてしまったのもその辺絡みかもしれない。

 

・ドランスキーの造形はかなり好き。彼の「フィクション全般に一切興味がなく意義も理解しない」という設定が、「つまり観客としてはまったくの無垢である」と変換されてあの最高のリアクションを呼び起こす流れがたまらない。

イキウメ「太陽」(2016)

視聴元:イキウメ『外の道』WIP

sotonomichi.jp

・劇場で観ていたら、しばらく立てなかったかもしれない。ヒトを人間たらしめているのは「何」であるかという思考実験。

・フィクションを愛好する人なら多かれ少なかれ慣れ親しんだフォーマットの組み合わせ…とみせて、やがて見えてくるもの、辿り着くところ。登場したひとりひとりの姿を思い返しながら、頭の中と胸の奥がいつまでもぶるぶると震えている。金田。

 

・イキウメ『太陽』を見ながら、ホモ・サピエンスネアンデルタール人北京原人の子孫ではなく、それらはみな異なった人類種であったと知ったときのショックを思い出していた。私たち以外の「人類」がいた世界がかつてあり、しかし失われ、我々は今やただひとつの孤独な種であるという事実。

・頑健で若い肉体と、感情を抑制する高い合理性を持ち合わせるノクスは、ホモ・サピエンスから再び分かたれた架空の新人類だ。我々が今に続く文明を得てから決して出会うことのできなかった、自分たち以外のヒト。それも、現代文明を生きるヒトが理想とする特質を備え”欠点”を克服したヒト。

 ・太陽を失ったこと以外はほとんど完璧に思える彼らを見たときの、でもこの複雑な感情はなんだろう。理想的だと羨望しつつひどく疎ましくもあり、動揺する思いはやがて「我々は何をもって我々を『人間』とみなしているのか」という問いに変わる。苦しく悲しく捨て去りたかったはずの特質たちが、苦しさも悲しさも憎しみもやりきれなさもそのままに(彼らの言う「キュリオ」的であることはちっとも素晴らしくないのだ!)、私たちの存在証明となってしまう。夢の行き先であったはずが途方もない断絶を抱えたまま、ノクスは静かな目をして、幻想の人類種としてあの世界に佇んでいる。

 

・終盤の森繁と鉄彦のぶつかり合いからの「処置」シーン付近から激しく揺さぶられてしまった。あの辺りから、この物語はなにが語られているのかが明るみに出るというか。この二人とか、金田と草一とか、見終えてから振り返るとさらに胸が詰まってしまう。金田…。

・同じノクスでも元キュリオと純ノクスとで意識の持ち方が異なるのがひどくリアリティあったな。キュリオの”欠点”をその身で知っているからこそ様々に屈折する人と、それらが完全に他人事だからこそカジュアルに断絶している人。

・ところで分かたれた両者をつなぐほぼ最初のフックがエロ本になることについては終盤でわかる設定的に必然なのかもしれないけれどホモソーシャル感も相まってあまりに身も蓋もない!とは思う。

・キュリオには太陽、ノクスには月がある、でも月は太陽の光を反射しているというくだりを考えていた。ノクスの”寄生”にも繋がる言葉だけどもうひとつ、ノクスをキュリオの存在を反射する鏡、他者として捉えたくなる。現実の人類が大昔に失ったもの。自分で自分の輪郭を把握することはとても難しい。

劇場の灯を消すな!Bunkamuraシアターコクーン編 松尾スズキプレゼンツ アクリル演劇祭

2020.7.5

21:00

WOWOWステージ

 

松尾スズキの発生させる茶番感、居心地の悪さ、気恥ずかしさ。そこからちょっと漏れ出てくる、真っ直ぐで”ベタ”な力への憧憬と祈り。

・「ゾンビ vs マクベス夫人」の情報量の多さよ。己の小賢しい脳が見てる途中なのにちょっとそれっぽい感想を組み立て始めていたところにアレよ。

・前半の『キレイ』ラッシュ、「ここにいないあなたが好き」オリジナルキャストコンビでちょいとやられてしまい…歌詞が初演版でしたね…?

・アクリル剣劇でちょっとどうかと思うくらい笑ってしまってなんでしょうこの感情は。敗北感?

・『泥と雪』お恥ずかしながらまったく予備知識がなかったので、キャスティング豪華だな、書簡体の朗読よいものですね、と聞き入っていてものの見事にズタズタになった。なり申した。この人選でこそのこの作品。軽く検索かけたら同じく知らずにズタズタになったご同志と知っていて待ち構えていた先達がいらしてこの…この…なんてものを選んで…。

 

・感染防止対策で一人残らずアクリル板に囲まれて、展示物のように立つ出演者たち。滑稽なような悲しいような、でも普段われわれが舞台を”鑑賞”する様って一面ではこういうところあるよねと思ったりもして。アクリル版で接触を断たれて、更にはテレビの画面でもう一回断たれて、互いに幻想の手を延ばす。

 ・アクリル演劇祭、オープニングもエンディングも松尾スズキ本人が担うのを見て、松尾さんもこういうとき敢えてベタベタな形で「責任」を負いにいくタイプなんだなと改めて思う。一見ふざけたような、その実はたったひとり身ひとつで矢面に飛び出していくやり方。震災直後の公演での三谷幸喜を思い出す。

・「怒ってもいいけど、生きてはいさせてよって思うよ」