水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

「ベッジ・パードン」

世田谷パブリックシアター
13:00

(観劇直後のツイート)

(その後のツイート)

  • 『ベッジ・パードン』/時間差観劇録。日本人が西洋人を演じるというフィクションを、真正面からやったのが前回の『国民の映画』だとすれば、こちらは逆に、その虚構性を真正面から。箱庭のようなセット。「翻訳」される言語。同じ顔の浅野和之たち(こう書くとシュール)。
  • 虚構性を全面に出すのは『ろくでなし啄木』も、けれどこちらは人物たちさえ、どこかお人形のよう。ドールハウスじみた家の窓から顔を出し、鼻歌を歌いながら小鳥さんに挨拶する赤毛の下女ベッジ。悩める漱石うたた寝に見た、遠い思い出を底本にした、笑えて奇怪な夢のような。
  • 三谷作品にしばしば出る「持てる者」と「持たざる者」。才能の有無、と言ってもいいかもしれない。持たざる者は持てる者に敵わない。絶望的に敵わない。シリアスな話を路線変更して笑いを増やしたとのこと、もしそのままだったらこの辺りもきつく掘り下げられていたのだろうか。
  • 万が一DVD化されることがあれば、特典映像で「本番中の浅野和之密着カメラ」などが見たいです。きっと戦場です。千秋楽あたりの浅野さんは燃え尽きて灰になってたんじゃなかろうか。平伏。
  • 三谷幸喜の、まるでヨーロッパ圏の(というと大雑把すぎるけれど)洋画の吹き替えのような言語センスに興味を引かれる。『国民の映画』や『ベッジ・パード ン』は、三谷さんの言葉のそういう感触を、意識的に強調しているようにも思えた。日本人が作った/まるで翻訳物のような/日本語の芝居。

(11/3 WOWOW放映時のツイート)

  • 『ベッジ・パードン』録画をしばし鑑賞。生観劇時は遠くて気づかなかったが、浅野和之は衣装もヘアメイクもえらく作り込んであった。特定の役はアップで見ると、その、なんというか、土下座して謝りたくなる迫力でございます。
  • 以前にも同じことを思ったけれど、三谷幸喜の「翻訳物っぽい」言語センスを逆手に取った構成のようにも見える。元の言語から離れて翻訳された世界は、その時点で大きなフィクションとなる。交わされる言葉は日本語であって日本語ではない。どこか非日常的な、おとぎ話のような世界。