水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

イキウメ「太陽」(2016)

視聴元:イキウメ『外の道』WIP

sotonomichi.jp

・劇場で観ていたら、しばらく立てなかったかもしれない。ヒトを人間たらしめているのは「何」であるかという思考実験。

・フィクションを愛好する人なら多かれ少なかれ慣れ親しんだフォーマットの組み合わせ…とみせて、やがて見えてくるもの、辿り着くところ。登場したひとりひとりの姿を思い返しながら、頭の中と胸の奥がいつまでもぶるぶると震えている。金田。

 

・イキウメ『太陽』を見ながら、ホモ・サピエンスネアンデルタール人北京原人の子孫ではなく、それらはみな異なった人類種であったと知ったときのショックを思い出していた。私たち以外の「人類」がいた世界がかつてあり、しかし失われ、我々は今やただひとつの孤独な種であるという事実。

・頑健で若い肉体と、感情を抑制する高い合理性を持ち合わせるノクスは、ホモ・サピエンスから再び分かたれた架空の新人類だ。我々が今に続く文明を得てから決して出会うことのできなかった、自分たち以外のヒト。それも、現代文明を生きるヒトが理想とする特質を備え”欠点”を克服したヒト。

 ・太陽を失ったこと以外はほとんど完璧に思える彼らを見たときの、でもこの複雑な感情はなんだろう。理想的だと羨望しつつひどく疎ましくもあり、動揺する思いはやがて「我々は何をもって我々を『人間』とみなしているのか」という問いに変わる。苦しく悲しく捨て去りたかったはずの特質たちが、苦しさも悲しさも憎しみもやりきれなさもそのままに(彼らの言う「キュリオ」的であることはちっとも素晴らしくないのだ!)、私たちの存在証明となってしまう。夢の行き先であったはずが途方もない断絶を抱えたまま、ノクスは静かな目をして、幻想の人類種としてあの世界に佇んでいる。

 

・終盤の森繁と鉄彦のぶつかり合いからの「処置」シーン付近から激しく揺さぶられてしまった。あの辺りから、この物語はなにが語られているのかが明るみに出るというか。この二人とか、金田と草一とか、見終えてから振り返るとさらに胸が詰まってしまう。金田…。

・同じノクスでも元キュリオと純ノクスとで意識の持ち方が異なるのがひどくリアリティあったな。キュリオの”欠点”をその身で知っているからこそ様々に屈折する人と、それらが完全に他人事だからこそカジュアルに断絶している人。

・ところで分かたれた両者をつなぐほぼ最初のフックがエロ本になることについては終盤でわかる設定的に必然なのかもしれないけれどホモソーシャル感も相まってあまりに身も蓋もない!とは思う。

・キュリオには太陽、ノクスには月がある、でも月は太陽の光を反射しているというくだりを考えていた。ノクスの”寄生”にも繋がる言葉だけどもうひとつ、ノクスをキュリオの存在を反射する鏡、他者として捉えたくなる。現実の人類が大昔に失ったもの。自分で自分の輪郭を把握することはとても難しい。