水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

コクーン歌舞伎「天日坊」

シアターコクーン
18:00

(観劇直後のだらだらツイート)

  • まとまらず、席の話など。初コクーン歌舞伎なので大奮発して桟敷席を買ったのだが、これがまた良かった。熱。舞台と席との人の熱。そうしてそれが凝縮されて静かに冷えてゆく時間。鍛え抜かれた身体の、光のような動き。そして何だか俳優さんに絡まれてる近くの人。
  • 更に関係ない雑談。終盤の非常に重要な場面で、〇〇さんの烏帽子がそれはもう絶妙な角度でズレていらして、(私の腹筋が)一時大変なことに。確かにあのお衣装、全体に扱いが難しそうです。
  • 普段は照れが先に立ってなかなかこういうことは言えないのだけれど、言ってしまおう。『天日坊』七之助さんの終盤の動きが格好良すぎて眠れない。勘九郎さんの鬼神のような芝居に気圧されすぎて眠れない。ああ、痺れるとはこういうことを言うのか。目の前で見てしまったので尚更。
  • 『天日坊』を立ち見で良いのでもう一度観たいものだな、あのラスト10分をまた観たいな、と画策中。もしかしてと思ったら案の定、新感線でもお馴染み田尻さん&前田さんが殺陣スタッフとして参加していらした。

(その後のツイート) ★一部ツイートは繋げて編集しています

  • コクーン歌舞伎『天日坊』/145年ぶりに日の目を見る河竹黙阿弥宮藤官九郎が脚色、串田和美の演出・美術、そこに若手中心の歌舞伎俳優&小劇場叩き上げ系現代劇俳優を配するという、名前の並びだけでも一筋縄ではいかない色彩を帯びた上演。フタを開ければ芸術として挑発的であることと、娯楽として多くの人間を楽しませることとは決して相反しない、というシンプルな事実を爽快に提示された感。極度に誇張されたデザインの衣装、素朴すぎるほど素朴な「芝居小屋」と背景、鳴り響くトランペットとエレキギターとパーカッション。挑発。
  • その空間で歌舞伎の血を背負った若き役者たちが、高らかにツケが打ち鳴らされる中、黙阿彌のことばを発し見得を切り、血と自己をめぐる迷宮をエネルギッシュに紡いでゆく。現代劇の人々は彼らの「傾く」道筋へバトンを繋ぎ、あるいは彼らの方法論に真っ向から攻めかかる。
  • とかなんとか頭でっかちなことを書いていますが、とにもかくにもかっちょいい。美しい。面白い。歌舞伎の歌舞伎たる技術がいかに痺れるものかを(とりわけ大詰めに)すこーんと掲げられた気分です。満腹。よるべなさと迸る情念とが共存する勘九郎、この際もう踏まれたいです姐さん七之助
  • 宮藤官九郎はパンフレットで「アイデンティティーの物語になりました」と書いた。それは「自分探し」という語で表されるナイーヴな心象というより、もっと地に足のついた「何なんだろうね俺って」という呟きであり「知らねえよ俺なんてよ!それが何だよ!」という怒りであったようにも。
  • 常々、白井晃は目の芝居がとても繊細なのが良いなと思っていて、今回のコクーンでも大詰めの「目」がたいへん印象的だったのだけれど、なにせ目、惜しむらくは近くの席でないと分からない。とはいえ串田和美が出してきた恐ろしいハードルを前に朗々と声を轟かせていた姿には、響くものがありました。

(さらにその後のツイート)

  • ふと『天日坊』の勘九郎の顔を思い出す。俺ぁ何やってんだろ、何でここにいるんだろ。途方に暮れたびしょびしょの、世にも虚ろで情けない顔を。芝居を観ていてよかったと思う瞬間のひとつは、役者のこうした、人間存在をぎゅうと濃縮したような在り方に立ち合ったときかもしれない、と思う。
  • 一つの芝居に珍しいほどに心奪われ、しつこく幾度も反芻する。その嬉しさとともに折に触れ、立ち合ったひとつひとつの芝居を誠実に受け止めたいと改めて思う。
  • とはいえ、今回のコクーン歌舞伎が個人的大ヒットだった最大要因は、ぶっちゃけるとわたくしの「ダメ人間大好き」という性質にクリーンヒットしたためと思われてならない。書いてみるとつくづく身も蓋もありません。素晴らしきかな、「ダメ格好良い」。