水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

「ヒッキー・ソトニデテミターノ」

パルコ劇場
14:00

(観劇直後のツイート)

  • ヒッキー観劇。良いなあ。吹越満の精密な身体、のみならず全員の身体が、なんかこう、あ、知ってる、という。生きづらさという大きな言葉とは少し違うかもしれない、しかし大きい「つらい」「こわい」のこと。でも笑える。(ひとまず書きたくなってしまいゆるゆる文。空席が勿体ない)
  • 人と会話するときの距離感というか、あの試合中のボクサーみたいになってしまう感覚に身に覚えがありすぎて笑いつついたたまれなくなりつつ笑う。
  • 精密が一回転してもうとても精密には見えない雑さ、というのが、好きだなあと思う。そこにひょいと本物の雑が混ざってくる感じも。よい、という言葉が適切かどうか分からないけれど、よい雑。

(後日のツイート)

  • 『ヒッキー・ソトニデテミターノ』/例えば、初めて乗るバスの路線がよく分からないときとか。初対面の人との会話のタイミングがうまく合わせられないときとか。日常のそこかしこに散る「不安」や「つらさ」は、気にしはじめるとみるみる高く伸び、恐ろしいハードルになる。
  • そのハードルにがんじがらめになって外に出られなくなった人々と、その家族と、外に出てみた人と、その職場の人々の、わりと淡々としたやりとり。パルコ劇場であるのに、まるで4分の1ほどのキャパシティの劇場で観たような狭さと近さ。笑いつつ、息をひそめつつ。
  • 前日潭『ヒッキー・カンクーントルネード』は未見なのだけれど、その辺りは無問題な雰囲気(とはいえ観てみたくなりましたが)。冒頭から引っ張り込んでくる吹越満のもう抜群な「身体」を皮切りに、一人一人の存在が端から説得力高しというか、「わ、分かる…」感。
  • ゆるっと零される言葉の、流れ去らない切実さ。他の『ヒッキー』もの(という言い方でいいのか)でも同じ役を演じてきたというチャン・リーメイの、いかにもな雰囲気の向こうにある読めそうで読めないようでな心模様などなど、あれこれ思い返すところ多し。
  • ヒッキーのことで「笑い」について触れたけれど、その笑いは(人それぞれ笑える根っこは違うことを踏まえて)痛みやキツさと裏表の、笑えなさの笑い、というようなものだったようにも思う。一方で、たとえば吹越満の挙動が純粋に可笑しい、という笑い方もあるだろう。ある種、客席が一体化しない笑い。

(さらに後日)

  • 『ヒッキー』と『叔母旅』*1、芝居としてはまったくタイプが異なるのだけれど、俳優の身体の在り方のおもしろさ、という点では共通している気もする(おもしろさ、という表現は少し違う気がしつつ、言葉が見つからず)。私にとっては、内容の「!」と同じほどに、身体の「!」があった感触。
  • 今日、再び『ヒッキー・ソトニデテミターノ』のことを思う。揺り返しのように、観終わってから時間を置いて、ぽつりぽつりと、どうしても考えてしまう。「分かる」と、最初は思った。しかし「簡単に分かるだなんて言うな」とも、苦く思う。他人のことを。あの舞台の上には、そんな「他人たち」がいた。

*1:シス・カンパニープロデュース『叔母との旅』