水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

ハイバイ「夫婦」

2016.1.24.

東京芸術劇場 シアターイース

 

・ハイバイ、よかった。よかったゆえの抉られるつらさで、もし観劇後になにも予定がなかったらひどく凹みながら帰っていたと思う。岩井さんの話。身内の話。ごく個人的な、しかし多分誰もが何らかの形で知っている理不尽の話。ひとつのフィクションとしての山内圭哉がよきクッションだった。

・客席の二割が笑う(それは毎回同じ人とは限らない)ところで八割は笑わない笑えないのが、掬い取り方の的確さを物語っていたと思う。例えば筋の通らない説教、例えばどう答えようが解決にならない形の問いかけ。滑稽で、でも身につまされると震えるほど悲しかったり腹立たしかったりする。

・けれど全体を包んでいたもっと大きな理不尽はそうした「断罪」できるものじゃなく、決してそうじゃなく、むしろそんな気分良い解決を圧倒的に拒む形の、人の多面性に関わるもので。誰かにとっての鬼は、誰かにとっての神様だったりする現実。でも鬼は鬼だし、っていうか人だ。時には身内だ。

・こっぴどくダメージを受けるタイプの作品は感想を書こうとして反芻して再度ダメージを受けるのでつらい。つら良い。

 

・なんだか、『MOTHER3』のネズミの台詞を思い出した。
◆みんなには かんじのわるい ひとだったかも しれないけど
ぼくには とても やさしいひと だったんだ。
もう かえってこないのかなあ。 さびしいよ。

  このネズミの言う「ひと」とは、主人公たちに対して非道な悪行をはたらき続けた人物。その人物を倒したあとに聞ける台詞。

 

・どんな現実的な題材でも、生身の人が目前で今やる時点であたりまえにフィクションなわけで、だからこそ露骨なフィクションの目配せ(例えば口で言う着信音、人形、ヅラ感あふれるヅラ)が却って内容への没入の手がかりになったりする。と同時に重さの緩衝材にも。このバランスも好きだった。

・そういえば、初日の初回を観るなんてずいぶん久しぶりだったなあ。なんだか無意味にドキドキしてしまった。

・とても恥ずかしいのでむしろツイート。今日のハイバイにて、岩井秀人の顔をよく覚えておらず、かなりの時間「岩井秀人」をほんとに岩井秀人だと思っていました。のちに岩井秀人が出てきてようやくあれ岩井秀人じゃないぞとびっくりしました。岩井秀人ゲシュタルト崩壊。す、すみませんでした…。