水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

PARCO「国民の映画」

2014.2.20

14:00

パルコ劇場

 

・『国民の映画』客席、校外学習かなにかなのか、結構な人数の中学生あるいは高校生がまとまっていらした。中学生あるいは高校生で生三谷、羨ましい…!終演後に興奮したやりとりが耳をかすめて、扉座の『ドリル魂』のときもこんなことあったなあ、と思い出しつつ釣られてテンション上がってしまったり。

・初演時を思い出していた。珍しく両親の為にチケットを取っていた公演だった。宮城の出で、震災の日も宮城で仕事をしていて、数日前に落ち合ったばかりだった父に「どうする」と聞くと「行こう」と言った。終演後「どうだった」と尋ねると「迷っていたけれど、観て良かった」と言った。そういう記憶。

 

・初演をなんだかんだで複数回観て、DVDも買って、台詞をかなり覚えてしまうくらいだった本作。いわゆる三谷的ウェルメイドとは外れた(一見)淡々と連なる出来事のみで3時間の大半を使いつつ、終盤で瞬く間に息を詰めさせる構成の強さ。そして、放たれるひとつひとつの言葉の重さ。

・映画という芸術を巡る映画人と権力者のやりとりは時にひどく滑稽で、いつの時代も変わらぬもののようで。それゆえに、見え隠れする不穏に、利用し利用されようとする人々の纏う痛々しさに「あの時代」が不意に顔を出すとき、それが紛れもなく地続きの過去だという事実が迫りくる。

・基本的な脚本・演出は初演から大きな変更はない印象。ただキャストチェンジがあった三名が前回とは大きく異なった人物造形で、それが波紋のように全体の色合いを変え。群像劇ならではかも。強かさの増したエルザとマグダ、一見野卑にすら見えるゆえに高い知性と感性が光るゲーリング

・はっきりと変更が気になった一点、マグダの台詞。言葉としては小さな違いだけれど、マグダの造形の差もあってか全く別物に聞こえた。石田マグダは無自覚の罪。吉田マグダは傲慢の罪。のような。ここは個人的には断然、ふとすると聞き流しそうだからこそ怖い初演の方が強烈だった。

・人物ひとりひとりのことを思うときりがなく。ヤニングス、ケストナー、レニ、互いに決して相容れずしかし激烈な芸術家としての執念。芸術の前に身を焦がすゲッベルス。諦めの底から美を見つめるゲーリング。そして、フリッツ。小林隆が再演でもそこに佇んでいたことが、何より良かった。

・余談。初演の白井晃向けに調整されていた…と思っていた箇所が渡辺徹でもまさかのそのまんまで「!?」となったり。大変そうだったのですがあれはそういう芝居なのだろか。しかし渡辺ゲーリングの人物にはなんだか合っていてこれはこれで。