水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

「The Phantom of the Opera」(2011)

YoutubeAndrew Lloyd Webberチャンネルにて48時間限定配信

ロイヤル・アルバート・ホールにて行われた『オペラ座の怪人』25周年記念公演版。

 

・配信中のオペラ座の怪人、見るぞー。

・少し休憩。目に眩しく、耳に雪崩れ込むような映像。

 ・オペラ座、数年前にまったく知識なしで見て今回で2回目なのですが、なまじ最初の印象があるせいで”All I Ask of You”のターンで後ろで聞いてるはずの気の毒な怪人のことが気になって気になって仕方ない事態に。初見時「いやきみ聞いてたんかーーーい!!!」となったので…。

 

 ・配信中のオペラ座の怪人、見終えた。余韻に浸ったあと、もう一度”The Phantom of the Opera” 〜 “The Music of the Night”に戻って聴き直したり。

 ・向こうの通常プロダクションではどうなのか知らないのですが、Masqueradeでの怪人の衣装があまりに気合入っていて(怪人….これ…手作り…!?)といらぬ方向に注目してしまった。顎のところがちゃんと動く仮面をわざわざ…!

 ・ロイヤル・アルバート・ホールの広大な客席が人また人で埋まっている映像を見ていたら、こうした風景が蘇るのは一体いつのことになるのだろう、という思いに囚われた。そも、蘇りうるものなのか。世界の仕組みすら変わるかもしれない今の世に。

 ・ペシミズムだろうか。それとも本当に、人の集う場所が、野蛮なノスタルジーと化す未来がやってくるのだろうか。

「Jesus Christ Superster: Live Arena Tour」(2012)

YoutubeAndrew Lloyd Webberチャンネルにて48時間限定配信

 

National Indoor Arenaでのライブ収録版

 

・『ジーザス・クライスト・スーパースター』未見で、これを期にといきなり英語版字幕なし現代演出で鑑賞する暴挙に出てしまった。あらすじだけ事前にチェックしてあとはノリでがんばった(聞き取りはほぼできない)。
アリーナでの上演、撮り方もライヴ映像のようで、とてつもない盛り上がりと臨場感。

・JCS、有名曲をうっすらとしか知らないのですがヘロデ王のターンはゲス派手おもしろ選手権の開催義務があるとみた。
公開中のローレンス・コナー演出版では有名人気司会者/メディアの王、のような。上澄みを撫で、祭り上げ、おもしろおかしく断罪する姿はジーザスをスターにした民衆の裏表。

 ・かの有名な「ジーザス・クライスト・スーパースター」もどこでどう入る曲か知らなかったので「ここで!!!??」とビビり散らかしてしまった。ビビり散らかしつつブチ上がってしまう矛盾。強烈な祝祭感と毒気と悲惨さ。

 ・歌がうまい人を見ると脳内が(歌がうまいな…)で埋まってしまう人間なので今回見たJCSも(歌がうまい)(そして歌がうまい)(余すところなく歌がうまい)と歌ウマの海に呑まれていた。大祭司カイアファ(多分)の長身から放たれる重低音が好きでした。

・今回『ジーザス・クライスト・スーパースター』を初めて見て、新感線の『SHIROH』の源はここだったんだなとようやく知る。ものごとは連鎖する。

NT Live「フリーバッグ」

・下ネタ満載、と聞いてその辺りへの感性がすごく鈍い身でわかるだろうか…と身構えつつ鑑賞。
一人ぼっちのハチャメチャな”彼女”による饒舌なひとり語り。下ネタは「ネタ」というより実際のところ、”彼女”を/”彼女”が語る上で欠かせない、切実な条件だった。

 ・潰れそうなカフェ、別れてる彼氏、死んだ友達、正反対の姉、距離のある父、エロ動画、電車の男、常連客、モルモット。客席をどっかんどっかん沸かせる露骨でどうしようもないエピソードの断片(現地の観客のビビッドな反応たるや)が、時系列と細部が整うにつれて”彼女”の行いと感情を明かす。

 ・私は”彼女”のことを分からない。分かったと言ってはいけない。”彼女”を表現する大きな要素、性欲、に関する感覚が弱すぎて、好き嫌いを述べることすらできない。でもこうして”彼女”に会ったし、前にも会っているし、これからも会うだろう。名の明かされない”彼女”は、個人でありつつどこかの誰か。

 ・フィービー・ウォーラー=ブリッジの演技、チャーミング、エネルギッシュ、繊細。陰々滅々一本槍になりかねない脚本を自ら書き演じて笑いとエグさのコントラストを保つ技。スマホで拡大するところでしぬほど笑ってしもうた…。
アップで見られるNTLの利点が小さな劇場の濃密さと繋がっていてよかった。

NT Live「リーマン・トリロジー」

・リーマン・トリロジー、1幕終わって休憩中。え、演劇のまさにこういうワンダーを愛しております…。三人による、三人称で描かれる時間。霧の如くにいつのまにか姿を変えるセット。サイモン・ラッセル・ビールを崇めたい。

 

・『リーマン・トリロジー』いいものを観た。追うのはリーマンのほんの数人の血筋、リズミカルに復唱される言葉、四角い閉鎖空間と箱と椅子とテーブル、背景、照明、ピアノの音楽、そこまで抽象化されてなお残る生々しいカネのうごめき。人から出発し、人を超え、人の手で弔われたひとつの時代。

・三人称で語りつつ一人称としても振る舞うスタイル、作品の叙事詩的な部分にはまっていたように思う。あらゆる人々に姿を変える、リーマンの最初の三人。強いて言うなら脚本の構造+男優三名なのを踏まえても女性役が一発ネタ系に収まりがちだったのがほんとに惜しく。皆様もっとできるじゃろうて!

・サイモン・ラッセル・ビールの幼少フィリップ、ママに違うでしょと言われてのあのキューッとした顔が…あっ屈辱的な思いをしたプライドの高い子供!屈辱的な思いをしたプライドの高い子供こういう顔する!!と屈辱的な思いをしたプライドの高い子供に詳しくもないのに確信が襲ってきて大変だった。

・俳優の実ビジュアルと役柄のイメージがかけ離れているほど(子供の役とか)逆に見立てで「そういうこと」として了解しやすく力技でどうにかなっちゃう面てあると思うんですが、サイモン・ラッセル・ビールはパッと見で力技かと思わせておいて微に入り細に入りの技術で打ち倒してくる。崇めたい。

 

・開演前の解説で、光の点滅があること、銃声が鳴ることがアナウンスされていた。所謂ネタバレとの兼ね合いの話にもなるだろうけれど、必要なことだと思う。

サム・メンデス良いな…と『1917』が俄然気になってきた。思えば、震えるほどよいと思ったNT Live『リア王』もサム・メンデス演出だったのだった。

てがみ座「燦々」

2020.2.11

14:00

東京芸術劇場 シアターウエス

 

・腕はある、審美眼もある、だけど己の”ほんいき”が見つからない、葛飾応為になる前のお栄の日々。木と紙の抽象的な装置。幕にも北斎の散らかった家の床にもなる大きな不織布。お栄が画の陰影を見出す夜鳴きそばと霧里花魁の場面の、最低限の言葉だけが響く静けさにほろほろと泣いた。

 ・頼まれていた北斎一門の画を慶賀に渡し、中に混ざる己の画に慶賀が目をやるかやらぬかとそわそわ見ているお栄の姿が、もの作る人、作ったものが人に響く様をこわごわ待つ人のそれで。ああいう時間はなにかの祈りに似ている。

 ・お栄の切実さを目にも手にも染みさせる前田亜季。舞台を離れ単に誰かの話を間近で聞いているような気のした、定型でない芝居の中村シユン。よかった。
音楽の趣味は合わなかったかな。先日の二兎社でも思ったが、こういう題材に「現代的」なジャンルの曲を乗せる行為は却って古臭く感じるときがある。

 ・ところで読売メンツのひとり、夏と冬にビッグサイトにいる(いた)感じのにいさんがいらしたが気のせいか。

「キャッツ」(映画)

・映画版『キャッツ』去年初めて四季版を観たくらいの知識で鑑賞。
歌: ガスのナンバーをガス自身に歌わせるアレンジが刺さった。”メモリー”は情緒に寄りすぎてて好みからは外れ。
ダンス: 迫力。スキンブルシャンクスのナンバーが一番好きでした。ただカメラがとにかく忙しなくてじっくり見られず残念。

・ビジュアル、舞台は「猫は犬にあらず」ならぬ「人は猫にあらず」を前提として華やかで抽象化された衣装やメイクで猫に近づいた印象だったけど、こちらはその事実に目を伏せダイレクトに人間とリアル猫を融合させてしまった感。猫というよりSFやファンタジー世界の異種族とみなしたほうが理解しやすい。

・服を着てる猫は違和感少なめだったのでリアルに振らないほうがよかったのかもしれない…イドリス・エルバ、服を脱いだらあまりにも全裸だった。というかわりと皆さん全裸の人間だった。
そんな中「私は猫だが何か」と演技力でねじ伏せてくるちょっと毛の多いイアン・マッケラン

・舞台版初見時、ストーリーがほぼない構成に面食らったんだけど、映画には分かりやすいストーリーラインが。いいのか悪いのかは判断できず。
舞台とは性格も立ち位置も変わっているミストフェリーズがこれはこれで可愛く。見せ場シーンの応援上映感。顔立ちなのかメイクか、外見が一番猫っぽかったな。

 

「ジョジョ・ラビット」

・『ジョジョ・ラビット』を観た。熱心にナチを信奉し、イマジナリーフレンドは”アドルフ”で、いよいよヒトラーユーゲントとして沢山の訓練を受ける…はずだった10歳のヨハネス。敗色の強くなりつつあるドイツの街で、彼のシンプルな世界を揺るがす客人。おとなにも、きっとこどもにも伝わる映画。

・脚本のエレガントな整い方たるや。そこに加わるテンポの良さと、情緒的なところでもどこか少し引くような乾いた感触。その手法が抉りとるものの深さ。ままならない環境の中、ヨハネスの為に”できることをする”大人たちの姿に、監督の、人への信頼や希望を見たような気がする。

・“空想”がキーワードのように様々な形で散りばめられていた。ヨハネスの友アドルフとスケッチブック。ママの見せてくれるパパ。エルサの話。ネイサンからの手紙。クレンツェンドルフ大尉の軍服。人を誤らせ、人を正し、自分を慰め、誰かを慰める、多面体をした力。想像力の産物。

・メインキャストみんな良かったけれど、個人的にはスカーレット・ヨハンソンサム・ロックウェルにやられた。あとスティーブン・マーチャント、我が幼き日のトラウマ『ロジャー・ラビット』のクリストファー・ロイドをちょっと彷彿とさせてひええ。

 

クレンツェンドルフ大尉とフィンケルもまた”そこにいられないはずの人”で。何度も繰り返される「見た目じゃ分からない」が、様々な形で響く。