水平線ログ

主にTwitterでの観劇感想ログ置き場です。ほぼ箇条書き。 ただいま抜けていた2016-2020のログを少しずつ転記中。

世田谷パブリックシアター「マーキュリー・ファー Mercury Fur」

2015.2.8.

13:00

シアタートラム

 

・昼の『マーキュリー・ファー』が不意によみがえる。耳を塞ぎたくなる言葉の残虐、目を覆いたくなる体の残虐。機能を失いつつある世界で、ガラス片を裸足で踏むような日々を、ひしゃげ砕けた愛のいびつな一欠片をよすがに生きるかれら。お伽話めいた単語たちが、その向こう側の凄惨をいっそう濃くする。

 ・真面目に印象を残しておかねばという思いと、「少ないキャストの大半が少女漫画みたいな八頭身で動揺」「そこに半海さん出てくると距離感が迷子」「中村中の声が好みど真ん中」「あまりの至近距離に逆に目のやり場を見失う」などという感想が脳内で同時発生して混迷を極めている。落ち着くべき。

 ・夜の静かな時間に心のなかでリフレインしだすと、観ている真っ最中の揺さぶられ方とはまた別の形で心臓を圧されるような思いがする。2005年の作品、という事実が重い。もっと素直に言うと、きつい。

・5年前、同じくリドリーの『ガラスの葉』を上演したときに合わせてSePTで行われたレクチャーで、演出・翻訳の白井・小宮山のお二人が、あまりにも残虐なシーンがある、一連のリドリー作品はやってきているけれどさすがにこれの上演は…と言っていたのがこの『マーキュリー・ファー』だった。

・それから5年、『マーキュリー・ファー』が書かれてからは10年。いまこの座組、暴力をあらわすに充分な力と、痛みをあらわすに充分な繊細とを持ち合わせた座組でもって上演されたがゆえのインパクトは確かにあったと思う。高橋一生の、あの苛立ちと凶暴と理知と弱さが同居する姿、なんなんだろう。

・戯曲の構成はクレバーすぎる程クレバー。謎は適切なタイミングで提示され、真相も適切なときに適度に明かされ、小道具の使用もお手本のよう。明け透けといえそうな程の「うまさ」だけれど、交わされることばの痛ましさ透明さは、「うまさ」の匂いを飛ばすに足る強さにみえた。